■ 『マルティン・ルター 』 ことばに生きた改革者  (2012.7.6)



つい先日、バッハの《マタイ受難曲》を聞いたばかり。いっそうルターへの興味がつのった。本書はルターへの人間的興味の渇をいやしてくれる。後年、ルターの信条がナチのプロパガンダに取り込まれていくつらい過程も教えてくれる。


ルターは、聖書のことばを、民衆のために民衆のわかることばで説きつづけた。宗教改革とは、ルターが聖書のことばによってキリスト教を再形成した出来事であった。ルターは、アイスレーベンに生まれる。13歳になるとアイゼナハの聖ゲオルク学校――ちょうど200年後にはバッハが入学した――に進む。その後、エルフルトの大学に。故郷への帰省を終え大学へ戻る途中で、ルターは運命的な体験をしたという。

野中で突然の雷鳴・稲妻とともに地面になぎ倒される。死の恐怖のなかで、ルターは思わず「聖アンナ様、お助け下さい、私は修道士になります」と叫んだ。そして2週間後突然、それまでの法学者への道をすて、修道院への入会を志願したという。この地には「歴史の転換点」と刻まれた石碑がたっているそうだ。

1511年ルターはヴィッテンベルク大学に移り神学研究を続ける。神学博士となり聖書教授に任ぜられる。ルターの聖書講義は徐々に評判を呼び、ヴィッテンベルク大学を一躍有名にした――ちなみにシェイクスピアがデンマークの王子ハムレットを留学させたのはこの大学だ。聖書講義はルターにとって、自身の聖書理解を学生たちと分かち合う活動であった。宗教改革とは根本的に「聖書を読む運動」。聖書をひとりで読むことから始まって、みんなと一緒に読み、読んだことを分かち合っていく運動だ。「みんな」に当たる最初の人たちが、ヴィッテンベルク大学の学生であった。

他方、既存の修道会の説教者は民衆に何を教導し語っていたか。「おまえたちの死んだ両親は、生きている間に償いを果たし終えないで死んだから、いまは煉獄で業火の苦しみに遭っているぞ」と迫った。さあどうする「金貨がたった一枚。、この箱の中でチャリンと音を立てるだけで、煉獄の苦しみはたちまち消え、親たちは天国に召し上げられるというのに」と説教した。

生来の原罪と、生涯に犯した現実の罪は、洗礼によって赦免される。洗礼後に犯した罪は、教会で懺悔し神父の赦免を受ければ赦されて帳消しになる。聖職者による償いの身代わりが免罪符(贖宥)の制度である。やがて教会はこれを金銭と引き替えに販売し、いつでも手に入れられるものにしていった。安易なかたちで罪の赦しを与え、民衆の心を動かしていく説教に対して、ルターは激しい怒りをおぼえた。

ルターは神学討論に訴えた。イエス・キリストのことばを語り伝える説教者として、どうしても発言せずにはいられなかったのだ。この討論提題は1517年10月にヴィッテンベルク城教会の扉に掲示された。「95箇条の提題」と呼ばれる。ここで、ルターが聖職者に問いかけたのは、教会批判ではなく、民衆の魂の救いのためには何が必要かということ。教会のなすべきことはすべて、聖書のことばから出発すべきと問うた。当初は何ら反応を得られなかったが、印刷物が出回り読み聞かせが盛んになると農民や都市部の商工業者など、多くの民衆が賛同しはじめた。

ルターの主張によれば、教会の教えや恵みは何の意味ももたなくなる。それどころか、神に背くものになってしまう。ローマカトリック教会の存在を根底から揺るがしかねない主張だったのだ。反対者たちの誹謗中傷、教皇庁からの圧力と脅迫などがルターにふりかかる。ついには、1521年1月、教皇から破門の大勅令が発せられる。

喚問の後、ヴィッテンベルクへ帰る途次、生命の危険があるなか、ルターは選帝侯の宮廷顧問官たちによって、ワルトブルク城――中世の歌合戦の城としてワグナーの《タンホイザー》の舞台になった――にかくまわれる。ルターはこの城内に大きな一室を与えられ、食料はもちろん、書籍、執筆のための大量の紙、医薬品に至るまで用意され、ひたすら著作活動に専念した。

ワルトブルク城での最大の業績は新約聖書のドイツ語訳である。ルターの関心は、聖書に示されている神の恵みのことば、すなわち福音にあった。それをドイツ語で人びとの心に届けたいという切実な思い。「私は民衆の口をのぞき込んで適切な表現を探した」という。民衆にとって、イエス・キリストのことばが、それまで教会で聴かされてきた呪文のようなものではなく、自分たちにわかる言葉で聞こえてきたのである。

礼拝改革としてルターは教会に集まって人びとが賛美歌を歌うことをはじめる。伝統的な聖歌はラテン語であった。荘厳な雰囲気につつみこむが、民衆にとっては理解をこえるものだった。ルターはそれを改め、普段つかうドイツ語で歌うことで、民衆を礼拝に参加させようと試みた。文字を読めない民衆たちもそらんじて歌ったことから、宗教改革の広がりに大きな影響を与えた。民衆が歌う賛美歌は、やがてコラールと呼ばれるようになる。ルターは生涯に50編ほどのコラールを作詞し、いくつかは作曲もしたという。


◆ 『マルティン・ルター ――ことばに生きた改革者』 徳善義和、岩波新書、2012/6

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