■ 『明治のワーグナー・ブーム』 ワグネリアンの誕生か (2016.11.9)








明治期にワーグナー・ブームとは、合点のいかない話。興味をひかれつい本書を手に取ってしまった。全編のほとんどが、明治期の洋楽導入の歴史とでもいうべき内容だった。ワーグナー・ブームがクラシック音楽が教養主義と結びつく端緒となったことがわかる。「ワーグナー聴かずのワーグナー・ファン」という極端な現象があったという。
ワグネリアンが誕生したのか?


近代日本の音楽移転を考えるとき、近代化とともに音楽が西洋化するのが当然と考える。著者はそこに、西洋音楽こそ音楽文化の普遍的形態だという思考、が潜んでいるという。それに、最高級の芸術なら国境を越えて理解されるなどということもあり得ない。ベートーヴェンやモーツァルトの作品は西洋音楽のコード(約束)に則って創作されている。それが美しいのは聴く我々がそのコードに即して作品を解読するからである。

こんなエピソードが紹介されている。徳川幕府が通商条約の批准書交換のために米国に外交使節団を派遣した(1680年)。使節団がハワイに寄港したとき、アメリカ人家庭に招待され、遠来の客のもてなしにと、ピアノと歌が披露された。幕府の役人には、それが犬の遠吠えにしか聞こえなかったそうだ。旧来の邦楽になじんできた耳には、コードの異なる洋楽がいかに異様に響いたか。

洋楽の普及はその後ドイツ人のお雇い教師に任され、ドイツ音楽が日本に根づくことになる。留学生がヨーロッパ各国へと派遣されたが、草分けとしての困難をもっとも切実に味わったのが留学生である。留学先のウィーで、ホテルから投身自殺した久野ひさの悲劇が思い出される。

洋楽のハイカラ臭を音楽面でなんとか中和しようとの試みが生まれた。歌舞伎の勧進帳を西洋楽器で演奏してみたり、長唄や地唄に西洋風の和声をつけるとか。ワーグナー・ブームはこの和洋調和学と同じ頃に起こった。世紀転換の直後のころだ。ブームの発端となったのは、姉崎嘲風(宗教学者・評論家、ドイツ・イギリスに留学)が雑誌「太陽」に発表した論文である(1902・明治35年)。ワーグナー聴かずのワグネリアンによって生み出されたブームだった。当時の日本の音楽事情では楽劇上演は不可能であり、実際に上演されたことはなかったのだから。

ワーグナーの楽劇をいかに体験したかといえば、活字を通してだったのだ。ワーグナー自身は音楽創作と並んで旺盛な文筆活動を展開したので、ワーグナーへは、書物を介して接近することができた。欧米では、ワーグナーが歌劇場にとどまらず、著作によって広く時代の知的風潮に大きなインパクトを与えていた。こうした欧米でのワーグナー熱が、西洋の知的流行に敏感な明治の知識人を虜にしたのである。

ブームの発端にかかわった姉崎嘲風にしても、ワーグナー理解は観念的であった。根底に熱烈なドイツへの偏愛があった。しかし、そのドイツ熱も三国干渉(1895年)によって冷や水を浴びせられる。日清戦争の戦勝気分に浮かれていた日本の世論はこれに大きな衝撃をうけ激昂した。日本に対するドイツ公使の姿勢も傲慢だった。ドイツ人がしばしばアジアに対して侮蔑や差別を向けるのを、姉崎もしばしば体験していた。愛憎逆転し彼はドイツ嫌悪に凝り固まった。

ドイツへの嫌悪感は、ヴィルヘルム時代の社会全体への批判に向かう。さらに時代の救世主としてワーグナーに大きな期待をかけた。ワーグナーこそはドイツ文明を根底から転覆させうる革命的天才であると。姉崎のワーグナー崇拝は、結局はワーグナーに託した彼自身の時代批判だった。ワーグナーが芸術による救済を思想の核心に置いた以上、姉崎は楽劇に、必然的に感動しなければならなかったのである。


◆ 『明治のワーグナー・ブーム ――近代日本の音楽移転』 竹中亨、中央公論新社、2016/4

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