■ 『森の旅人』 チンパンジーは道具を使う (2007.5.15)
静かな安らぎを思わせる題名に惹かれて本書を手に取ったが、実に読後感がさわやかである。一途でシンプルな生き方に共感を得る。環境問題にふれる様子は『沈黙の春』のレイチェル・カーソンに通じる。著者のジェーン・グドールは、霊長類学者、動物行動学者、野生動物保護運動家、チンパンジー史の語り部、霊的探求者など様々な横顔を持つ。1934年生まれ。
本書はグドールの自伝でもあるが、「信仰の書」――神の存在を確信している――でもあるかなと思う。かつてパリのノートルダム大聖堂をおとずれたグドールは、大聖堂の大空間にひびきわたる荘重なオルガン曲に圧倒される。バッハの《トッカータとフーガ》だった。まるで音楽それ自体が生きているように感じた。とつぜん永遠に射とめられたかのように、神秘にふれるエクスタシーといってもいいものだったという。このエクスタシーが、彼女自身の存在そのものの基盤になっているという。どこにいても、バッハの「フーガ」がきこえると、あの日の情景がよみがえると。
大自然のなかで動物とかかわる仕事をしたいというのが、グドールのかねての希望だった。1957年にふしぎな縁でアフリカを訪れる。そこで、古生物学者、文化人類学者として有名なルイス・リーキー博士に出会う。博士のみちびきによってゴンベの森のチンパンジーを研究しはじめる。
リーキー博士がグドールをゴンベに派遣したのは、チンパンジーの行動が理解できればヒトの過去を知ることができると考えたからだ。行動は化石にならない。人間とはなにか。人間はどこからきたのか。そして、どこへいくのか。その根源的な疑問を解くには化石の分析だけでは用をなさないからだ。
ヒトにいちばん近い野生の大型類人猿、つまりチンパンジー、ゴリラ、オランウータンの行動を長期にわたってつぶさに観察することが人類の祖先の行動と精神の淵源を知る手がかりになると考えた。だが、類人猿とともに森のなかで10年、20年と暮らすにはリーキー博士は年をとりすぎていた。
若くてねばりづよい研究者を探さなければならなかった。偏見がなく、知的好奇心に燃え、動物が好きで、途方もない忍耐力をもっている人物。かくして白羽の矢が立ったのが、ウェイトレスと秘書の経験しかない、26歳のイギリス人女性、ジェーン・グドールであった。一途な性格、生っ粋の動物好き、アフリカまでやってきた行動力がひきつけたのか。
ゴンベに到着し、チンパンジーに100メートル以内に近づけるようになったのは、それからようやく1年後だ。そして、「道具を使うチンパンジー」の発見が来た。1人――本書では終始、チンパンジーは「匹」でなく「人」で表されている――のチンパンジーが、シロアリの巣のそばにすわりこんで、草の茎をしきりに蟻塚の穴に押し入れていた。しばらくすると、そっと茎をひきぬき、それを口でぬぐって、なにかを食べていた。茎には噛みついたままのアリがたくさん付着していたのだ。道具を使っていた!
また、チンパンジーが、ヒトの部族間抗争と変わらない縄張り行動をとることがあるという、戦慄すべき発見もあった。一見平和そうにみえるチンパンジーたちが、じつは原始的な戦争といってもいい深刻な緊張関係のなかにどっぷりと身を浸していること。この発見は、当時のリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』(1976年)によって、さらに注目を浴びる。行動はもっぱら当人の遺伝子によって決定されているとする、人間の動機にかんする社会生物学的な研究である。ヒトに限らずチンパンジーにも、遺伝子に抗争本能が組み込まれているというわけだ。
◆『森の旅人』 ジェーン・グドール+フィリップ・バーマン、上野圭一訳、松沢哲郎=監訳、角川書店、2000/1月
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