■ 『フォン・ノイマンの哲学』 人間のフリをした悪魔 (2021.4.23)
ジョン・フォン・ノイマンは、53年あまりの短い生涯の間に、150の論文を発表したという。発表分野は実に多岐にわたる。論理学・数学・物理学・化学・計算機科学・情報工学・生物学・気象学・経済学・心理学・社会学・政治学、……。科学のどの研究分野をみても、必ず何らかの先駆者としてノイマンの業績に遭遇する。
ノイマンは「コンピュータの父」とも呼ばれる。現在のあらゆるコンピュータの基本構造である「プログラム内蔵方式」はノイマンによって確立されたものだ。観測値から気象予測を行う方法にも功績があったとか、「天気予報の父」でもある。
そして一方で、原子爆弾開発プロジェクト「マンハッタン計画」の科学者集団の中心的指導者でもあった。
ノイマンのあまりの天才ぶりに、――彼は人間よりも進化した生物ではないか、との言もあった。表面的には人当たりのよい天才科学者でありながら、彼の思想の根底にあったのは、科学で可能なことは徹底的に突き詰めるべきだという科学優先主義。そして、目的のためならどんな非人道的兵器でも許されるという非人道主義だ。第1次世界大戦で毒ガスを発明したフリッツ・ハーバーになぞらえて、「人間のフリをした悪魔」とまで呼ばれた。
ノイマンは、1903年、オーストリア・ハンガリー帝国のブタペストで生まれた。父はブタペスト銀行の顧問弁護士。祖父は8桁の掛け算を暗算で解くことができたそうだ。ノイマンも祖父の影響で大きなケタ数の暗算ができるようになった。また本の虫であった、一度読んだ本や記事を一言一句たがわずに引用する能力を身につけたのだ。10歳から17歳までは一貫教育のギムナジウムで学んだ。ノイマンは、数学など全ての学科(音楽・体育を除く)で最優秀の成績を収め神童と呼ばれた。
やがて大学に進む。ベルリン大学では、アインシュタイン教授の統計力学を受講したそうだ。「数学の天才」との名声はヨーロッパに響き渡った。1933年、ノイマンはナチス・ドイツによる危機が本格的に迫る前にヨーロッパを脱出。1937年には、アメリカ合衆国市民権を獲得する(34歳)。プリンストン高等研究所終身教授、陸軍兵器局弾道額研究所諮問委員、海軍兵器局の顧問などいそがしく活躍する。
1942年9月、ノイマンは海軍兵器局の顧問に就任しイギリスに派遣される。ドイツ機雷の排除に大きな成果を上げた。当時の英海軍が憂慮していたのは沿海に敷設されたドイツ軍の機雷だった。この機雷は連合国側の船舶航路上の海底に数多く沈められ、船が接近すると磁気に感応して浮かび上がり爆発する仕組みだ。ドイツ軍は一度目では爆発せず、三度目や五度目のランダムな磁気反応で爆発する新型機雷を開発していた。ノイマンは、ドイツの機雷がどのようなパターンで敷設され、いかなる磁気反応で爆発するように仕組まれているのかを予測する数学モデルを作成し、イギリス側の損害を最小にさせるための対処方法を示した。この対処方法が大成功を収めたという。
大砲の弾道計算では、当時1発の砲弾を発射するために3000の弾道候補が生じ、そこから最適な弾道を決定するには750回以上の微分計算が必要とされた。陸軍ではアナログの微分解析機使用していたが、1発の弾道を計算するために丸1日が費やされた。このため、陸軍のコンピュータ開発プロジェクトが組織された。指揮はゴールドスタイン、彼の下でエッカートとモークリーが設計した。1944年8月
ENIACの試作品が完成した。総重量28トンの巨大装置。
ゴールドスタインとの偶然の会話から、興味を示したノイマンは実物を見てさまざまな改良点をアドバイスする。ノイマンは1944年の夏から原爆設計の最終段階で超多忙だった。このため往復列車のなかでコンピュータの論理構造を考え続け、手書きのる。受け取ったゴールドスタインに送る。タイプ原稿101ページ。ハードとソフトの分離した新たな機械の定式だ。ゴールドスタインはノイマンの第1稿を謄写版で印刷し軍部と政府の関係者や研究者に配布した。この草稿が瞬く間にヨーロッパにも伝播し、その後のコンピュータ開発のバイブルになった。現代のコンピュータの根本となるノイマン型アーキテクチャー「プログラム内蔵方式」の誕生だ。
1944年、原爆開発プロジェクト―マンハッタン計画が、オッペンハイマー(38歳)をロスアラモス国立研究所の初代所長に迎えてスタートした。研究者には、アメリカのトップクラスの数学者と物理学――ファインマンとか、を集めて最終的には1500人になった。ノイマンは多忙ゆえにロスアラモスに定住せず、特別顧問で任命された。
ノイマンが推進したのは、爆縮型原爆の設計である。原爆の威力を最大限にするために。落下後に爆発させるのではなく上空でプルトニウムに点火させる方式だ。一連のプロセスを正確に制御するためには複雑な数値計算が必要になる。計算は半年かかり、設計は1944年末に完成した。
ノイマンが提唱したこの「爆縮理論」がなければアメリカの原子爆弾完成はずっと遅れていたはずだ。1946年7月ニューメキシコ州の砂漠で、人類史上最初の核実験が行われた。結果は予想以上でTNT2万トンと言われた。人口30万〜40万人の都市を焼け野原にできる威力だ。ノイマンは核実験の準備がうまくいった時点で満足して、すでにプリンストンに戻ってコンピュウータ開発に取りかかっていた。
ロスアラモスの科学者は、自分たちが大量殺戮兵器の製造に加担していることを認識し、内心に強い罪悪感を抱いている者も少なくなかった。ノーベル賞受賞の科学者ファインマンもそうだ。
……ファインマンは、ノイマンと散歩の途中で会話を交わして楽になったという。
「ノイマンは我々が今生きている世界に責任をもつ必要はない、という興味深い考え方を教えてくれた。この忠告のおかげで、僕は強固な社会的無責任感を持つようになった。それ以来、僕はとても幸福な男になった」。
ノイマンは左肩の強烈な痛みで突然倒れる。ガン腫瘍であった。全身にガンが転移したノイマンは、1957年2月に世を去る。52歳だった。何度か立ち会った核実験で浴びた放射線がガンの原因だと言われる。
◆ 『フォン・ノイマンの哲学 人間のフリをした悪魔』 高橋昌一郎、講談社現代新書、2021/2
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