■ 『一億三千万人のための『論語』教室』 高橋源一郎先生の超訳を楽しむ  (2021.3.27)





 高橋源一郎さんは『論語』に20数年も取り組んでいるそうだ。
 もう高橋先生の「超訳」を楽しむしかない。
 背景には、「iPod」とか、なぜか「真空管アンプ」も登場する。




子曰く、学んで時に之を習う。亦た悦ばしからずや。朋あり、遠方より来たる。亦た楽しからずや。人知らずして憤おらず、亦た君子ならずや。

「いくつになっても勉強するのはいいものですよねえ。みんなでこの教室に集まって一緒に勉強している時は特に楽しいですね。
だってひとりじゃセンセイだってつまらないですよ。それと同じで、友達が遠くからわざわざ話しに来てくれるのも嬉しいですよねえ。みんなもそうでしょう?
ひとりじゃ生きていても寂しいですしね。でもその代わり誰かに会ってその人が自分をぜんぜん知らなくて『あんた誰?』とかいわれたりするとムカツいて、
クソ誰とも会うんじゃなかったよとか思ったりするんです。
人間てほんとに勝手なんですよねえ。皆さんは、そんなことで腹を立てるような人にならないでくださいね。そんなのツマラナイでしょ。
自分は自分、でもひとりでいるより他の人といると楽しい、ぐらいな感じで生きてください。それでいいんです。


子曰く、人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患うるなり

「みなさんにもいっておきたいんですけどね。おれのことを誰も理解してくんない、とか文句をいっちゃいけません。そんなことどうでもいいじゃないですか。
よく考えてみてください。みなさんが相手のことをぜんぜん理解できてなかったら、最悪でしょ。同じことなんですよ。学問の方から、おれのことを理解してないぜっていわれちゃいますよ」


子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず。

「知識というものの厄介なところは、結局『頭』で知ることしかできない場合が多いということです。それでは、深くエモーショナルに納得したものにはとても敵いません。
でも、単にエモーショナルなところで心打たれたとしても、それは、自分から全身全霊でなにかに打ち込んでいるときの喜びの深さにはとても比べられないのです」


子の燕居するや、申申如たり、夭夭如たり。
   <燕居(えんきょ)安らかにくつろいでいること、申申如 しんしんじょ、夭夭如ようようじょ>

「センセイの知られざる一面をご紹介しよう。センセイがいちばん好きな時間は、自宅でゴロゴロしているときであった。
なにもせずぼんやりしたり、iPodに入れた好きな音楽、たとえば、バッハ以前のバロック音楽を、真空管アンプと最新のスピーカーシステムで聴いたりするのである。
あるいは、古いモノクロ映画、それもVHSヴィデオ(!)で録画したやつを、ブラウン管のテレビで眺めたりする。
よく観察してみると、きちんと聴いたり、観たりしているわけではない。ただもううつらうつらしながら、ときの流れに身をまかせている。そんな感じだ。
そのリラックスした姿と、ふだんの、『学び』に対する峻厳な姿勢との落差に、センセイのリアルを感じた者である」


子曰く、辞は達するのみ。

「ことばや文章は、相手にこちらのメッセージが伝われば、それで十分です。美しい文章、人を驚かせる文章を書く必要などありません」


◆ 『一億三千万人のための『論語』教室』 高橋源一郎、河出新書、2019/10

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