■ 『日本語の科学が世界を変える』 科学は日本語でやるべし (2015.5.21)








つい先日、「漢字廃止論」――『漢字が日本語をほろぼす』田中克彦著(*1)を、読んだばかりである。今度は「日本語礼賛」か。こちらの本も「科学こそ、日本語でやるべし」との強いメッセージを持っている。著者にしても、最初は英語によるサイエンス礼賛主義者であったのに、いつの間にか、日本語による科学や技術の手法、それを生み出す日本の科学観や技術観の方がより本質的で大事だと思うようになったそうだ。


西欧の科学はまず仮説があって、そこから学問を進める。仮説段階では間違っていてもかまわない。最終的に正しい世界が見えればよいのだ。一方、日本の科学はまず自然の摂理のようなものを感じとって、それを十二分に活かすような方向に研究を進める。そこから本当の自然の秘密を引き出す。自然のままにという直観を大切にするのだ。

現在の日本人は創造的な科学を展開し、多くのノーベル賞受賞者を輩出している。日本語には、科学を自由自在に理解し創造するための用語・概念・知識・思考法までもが十二分に用意されているのだから。かつて明治維新の日本には、近代の科学・技術に関する言葉が存在しなかった。西周などの努力によって、西欧の学術用語が翻訳された結果、われわれは母国語で科学ができるようになった。

「原子」や「細胞」という言葉が作られなかったら、同じ英語を使うしかない。英語が母国語であれば、例えば「セル」は、細分化された一区画、だとわかる。セルラーホン(携帯電話)の周波数割り当て方式も同じイメージだと直観できるだろう。日本人にはその類推はできない。しかし、「細胞」であれば小さな膜に包まれたものという意味だから、自ずとイメージがわいてくる。

著者は、湯川秀樹の中間子論は、博士が日本語で物理学に取り組んでいたからこそ、生まれたのだ、と主張している。少なくとも日本語でなされた思考作業によって世界的な成果が得られたのは事実である。日本語の感覚が世界的発見を導いたのであると。

湯川博士は、実験的に確認されていない未知の粒子の存在を予言した。その理論は、原子核における、陽子や中性子を結びつけている力をうまく説明したものである。この際、中間子というボールをキャッチボールすることで、力が伝達されるというスキームを導いたのだ。

日本人の常識の中には「真ん中」という概念が存在する。右手に極端な考え方があり、一方で左手に対照的な極端な考え方があるとき、日本人はそのちょうど中間、つまり真ん中に本当の真理があると、暗黙のうちに感じとっている。欧米人は、右か左か、上か下か、……といった二分法である。日本文化はいつも中間に真理があるという前提でものごとを考える。日本語での議論が新しい世界――中間子という、をひらいたのは間違いない。


*1 『漢字が日本語をほろぼす』 →こちら
◆ 『日本語の科学が世界を変える』 松尾義之、筑摩書房、2015/1

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