■ 『辞書になった男 』 ケンボー先生と山田先生 (2015.6.4)
たしか中学1年生のとき。初めての国語辞書が『明解国語辞典』だったはずだ。見出し語が他の辞書とは違って、「表音式」だったのを覚えている。そして、つい先年、『新解さんの謎』を読んで、「新」が付いただけで、なんでこんなに大胆に変身したのかと、びっくり。
本書は、『新明解国語辞典』誕生の周辺をめぐり、当時超人的な辞書編集者としてあがめられていた2人 ――見坊豪紀と山田忠雄の軋轢をたどったものだ。ノンフィクションであるが、まるでミステリーのようだ。最後のどんでん返し、「実は三省堂が……」まで用意されている。そして、興味深いのは、著者が、それぞれの辞書の片隅の用例に隠されている、編集者(見坊と山田)からの秘めやかなメッセージを巧みに読み解いていることだ。
いま日本を代表する小型辞書、『三省堂国語辞典』と『新明解国語辞典』はいずれも三省堂から刊行されている。前者は見坊豪紀が、後者には山田忠雄が深く関わった。2人はいずれも東大で学んだ同門の国語学者である。彼らの相互関係は、昭和18年に刊行された『明解国語辞典』(略して『明国』)にさかのぼる。そこから『明国』は、見坊を中心として昭和35年に『三省堂国語辞典』へと作り変えられ、さらに山田によって昭和47年に『新明解国語辞典』へと変身したのだ。
戦中に刊行された『明国』はあらゆる面で見坊の超人的な能力によって完成した。編集方針は、「引きやすく」「わかりやすく」「現代的なこと」の3つであった。さらに、表音式で見出し語を載せるアイデアを出した。「栄養」は従来の辞書では、歴史的かなづかいで、エイヤウとかエイヨウと書く。これをエエヨオと発音式にしたのだ。発音さえわかれば引ける、誰もが知りたい言葉にダイレクトにアクセスできる画期的な発想だった。このとき、山田は見坊の助手だった。辞書作りに情熱を注いでいる同期生・見坊の姿に大いに刺激を受ける。
戦後の昭和27年、『明国』改訂版が送り出される。しかし、学校関係者から「表音式」見出しへのクレームをかなり受ける。このため、現代かなずかい方式への転換が計画され、『明解国語辞典 学習版』となる。これが見坊によってさらに発展をとげ『三省堂国語辞典』(略して『三国』)初版として昭和35年刊行された。このとき、『明国』と『三国』が併売されている状況だ。それぞれに改訂作業が求められていた。
その後、見坊はワードハンティングに全精力を注ぐようになり、『三国』の改訂作業が停滞してしまう。三省堂には、『明国』改訂を山田に任せたい意向が生じる。改訂作業を任された山田は、自身の理想を反映させた『新明解国語辞典』(略して『新明解』)という全く新しい辞書へと生まれ変わらせた。
発端は見坊豪紀が、恣意的な辞書編纂を良しとせず、大規模な用例採集に基づいた辞書作りを理想に掲げたこと。一方、山田忠雄は従来の言いかえや堂々めぐりを打ち破る理想の国語辞書を自身の手で作り上げたかった。二人の掲げる理想はすれ違い、衝突することは目に見えていた。
『新明解』には、こんな用例がある ……「じてん【時点】 1月9日の時点では、その事実は判明していなかった」。昭和47年1月9日のことだ。当日は、『新明解』の完成を祝う打ち上げが盛大に行われていたという。山田と見坊、ほか編集者が勢揃しいていた。真新しい『新明解』が披露されたが、その序文は出席者が初めて目にするものだった。そこには「……見坊に事故有り、山田が主幹を代行した……」と。見坊が事故にあったという事実は存在しなかった。これまでは見坊が中心的な役割を果たしていたが、新明解では違うということがはっきりと打ち出されていたのだ。見坊は怒りが収まらなかったようだ。2人の軋轢関係の発端だ
時間とともに2人の関係は落ち着いてくる。平成9年に刊行された『新明解』第5版では、あることばが書き変えられていた ……「おんじん【恩人】危機から救ってくれたり物心両面にわたる支援の手を伸べてくれたり発憤の機会を与えてくれた人……」。若い頃、山田はずいぶん見坊に世話になった。一方、『三国』第2版の【ば】の用例には気になるものが
……「山田といえば、このごろあわないな」。見坊のメッセージだろう。
◆ 『辞書になった男 ケンボー先生と山田先生』佐々木健一、文藝春秋、2014/2
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