■ 『にっぽん音吉漂流記』 帰国は叶わなかった (2016.8.26)







幕末の日本では、国内産業の興隆をうけ、回船による物資運送が活発化していた。一方で、造船技術や航海術は、旧時代をそのまま引き継いで低レベルのままであり、悪天候による難船事故が多発したようだ。海流にのって海外に漂着したものは、外国語修得の機会を得て、通訳などで日本外交の当事者として活躍することもあった。「にっぽん音吉」は、そのような漂流者のひとりである。




音吉は尾張国知多郡の回船・宝順丸の乗組員だった。弁才船といわれる当時の大型和船で尾張から江戸を目指して出帆する。1832(天保3)年旧暦十月のこと。遠州灘から伊豆半島の下田港へ向かうが、風波に流され難破する。14人の乗組員は14カ月後にようやくアメリカ太平洋岸に漂着する。生き残った3人はイギリス帆船でロンドンに送られる(1835年6月)。

その後、3人はマカオに送られ、ギャツラフ、モリソン両通訳官に託されて、日本へ送り返す伝手を見つけることとなる。ギュツラフは、海外伝道を志しオランダ伝道会からバタビアに派遣され、語学に才能があり中国語に熟達していた。アヘン戦争の講和条約では通訳を務めることになる。モリソンはイギリスの中国伝道の先駆者。新約聖書、旧約聖書の中国語訳を完成していた。

送還のためにアメリカ船モリソン号が調達された。平和的な使命を明らかにするため、船からは大砲を取り外した。音吉らは、マカオからモリソン号に乗船し江戸へと向かう。三浦半島の御崎に達し浦賀湾に近づくと、モリソン号は、突然の砲撃を受ける。翌日には夜明けとともにさらに砲撃が続く。ついには砲弾が船の前部に命中。日本人漂流者の送還を目的としたモリソン号には予想もしなかった事態である(1837年7月)。

浦賀湾は江戸への海上の入口。この重要地点に幕府は浦賀奉行を置いて江戸出入りの船の取り締まりと周辺の幕府直轄地の行政を委ねていた。この砲撃によって、モリソン号に、幕府の強い態度が示されたのだ。この時期<文政8〜天保13年(1825〜1842)の約18年間>は幕府がもっとも強硬だった。原因には九州でのイギリス捕鯨船の略奪行為がある。

幕府は厳重に警戒を続け、モリソン号が、退去し大島の沖合に帆影が見えなくなるのを確認した。異国船はひたすら打ち払うべきもの、国籍や渡航目的を積極的に知る必要はないものと考えていた。モリソン号の航海は、通商はもとより、漂流民送還さえも実現できず、完全な失敗に終わった。この事件のあと、音吉は英国艦で、日本人としての身分を隠して、通訳として働いたようである。すでに音吉は、上海で妻をむかえ、子をもうけていた。

1850年はアメリカの対日本開国要求がにわかに積極化した年だった。モリソン号事件は、対日交渉の前史として位置づけられるだろう。背景には、太平洋横断汽船の寄港地(石炭補給地)として、日本の地位が新に認識されたことがある。カリフォルニアのゴールドラッシュが、日本の開国を要求する原動力だった。中国市場に参入したいという過熱感があった。

ペリーが艦隊を率いて日本に表れる。アメリカ艦隊は予想に反して、打ち払いをうけず、幕府の穏健な扱いをうけた。ペリー艦隊は二度目の日本訪問を行い、日米和親条約を調印。日本は開国の第一歩を踏み出した(1854年4月)。

音吉は、長崎での日英交渉に、通訳官オトーとして活躍する。この交渉によって音吉の名は一躍幕府の人々に知られることとなった。音吉の行動は自信に満ちていたが、幕府側からは、言葉を仲介する者というよりは、日本人でありながら外国人の利益を計る者、と見なされた。

幕府官吏が音吉と接触した際に彼を上陸させようと考えた。音吉はこれに対し、上海に妻と子供たちがいるので、英国旗の保護下にいた方がいいと答えたという。音吉は、日本人として最初の上海居住者だった。音吉は妻をむかえ、男2人、女ひとりの3人の子供を得た。晩年には、上海を離れ妻の故郷シンガポールに移ったらしい。その後に消息は絶えた。
1879(明治12)年6月18日の『東京日日新聞』にはこんな記事が載った。……音吉の子ジョン・ダブリュー・オトソンという者が、帰朝して神奈川県へ入籍を願い出たと。入籍願いによれば、音吉は1863年上海を去り、シンガポールに赴き、その後、同処にて鬼籍に入る。……混血の息子を「日本人民の籍」に入れることが、長い人生を異国ですごした音吉の最後の意思表示だった。


◆ 『にっぽん音吉漂流記』 春名徹(はるな・あきら)、晶文社、1979/5

    HOME      読書ノートIndex     ≪≪ 前の読書ノートへ    次の読書ノートへ ≫≫