■ 『音をたずねて』 ページを繰るごとに繊細な音が聞こえる (2008.4.5)



「母の胎内にいたときの音を覚えている」という男に遭遇したことがある。ザッザーと何か潮流のなかを漂っているような音だったと言う。音の原風景とは思うがどうしたって眉にツバをつけたくなる。

著者・三宮さんは、私たちの心の中には、ある種の「音の原風景」があると言う。それは、小さいころから聞いていた音、物心ついてすぐに耳にして、ずっと忘れられない音かもしれない。祭囃子、おもちゃ、花火、楽器、日常の道具の音などなど。

これらの音は、いつも同じように響いている。だから私たちの高ぶった気持ちを平常に戻してくれたり、落ち込んだ気持ちを元気にしてくれたりすると。

さらに著者は、この本から、たくさんの音や声や音楽が読者の耳に届くことを楽しみにしているという。たしかに、この本からはさまざまな音が聞こえてくる。浜松のピアノ工場の組み立てラインと調整部門の作業を見学したときの「ピアノの故郷をたずねて」を読んでみよう。

大きな自動ドアを抜けると、ほのかな木の香りと少しきつい塗料のにおいがして、いきなりたくさんの音に迎えられた。ホイーン、キキー、トントントン……。よく聞いていると甲高い声の鳥が、「ホーラ・ヨイショ、モウイッチョー」と鳴いているみたいである。ドリルで別の穴を開ける音が、コロロロロ、ガララララと聞こえ、まるで電気仕掛けのカエルが鳴いているようだ。向こうでは、ギョロロロロと鳴る機械を動かしながらスタッフが弦を張っている。

ほんとうに繊細な表現ですね。ピアノ製作の入り組んだ工程が目に浮かんでくる。次はどんな音が聞こえるのだろうとあせってページを繰りたくもなる。

もちろん設備自体は物々しく、大きな機械や大掛かりな仕掛けが並んでいる。ロボットがキーユイーン、キョユイーンとけたたましい音で機械を操作し、コンプレッサーがプシュー・パシャッと恐ろしい空気圧縮音を立ててピアノを裏返していたりするのだが。

最後の調整部門では、木の棒に数本の針をつけた「ピッカー」という器具を使っている。弦を叩くフェルト部分をピッカーでトントン、トントンとたたいてほぐす。すると、弾いてもコーンと硬い振動が返ってきたものが、ピッカーでたたき、ヤスリでシュウーッ、シャーッ、シュッシュシュッと表面の毛羽立ちを整えると、音に膨らみが出て美しく歌うようになるという。タッチもずっと柔らかになる。

著者のピアノに対する思い入れは尋常ではないですね。ピアノが何かを食べて育っているとしたら、そのご飯は時間と愛情だろうと、このピアノ工場のルポを結んでいる。これだけの生産時間とスタッフ全員の愛情、そしてそれを弾く人の愛情だと。

◆ 『音をたずねて』 三宮麻由子、文藝春秋、2008/1

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