■ 『落日の宴 勘定奉行川路聖謨』 気骨あふれる幕末の外交官 (2013.9.12)
この本の主人公・川路聖謨(かわじ・としあきら、1801-1868)は、著者・吉村昭によれば、幕末に閃光のようにひときわ鋭い光彩を放って生きた人物であるという。軽輩の身から昇進をつづけて勘定奉行筆頭まで登りつめた。頭脳、判断力、人格ともに卓越した幕吏であった。
ペリーの来航により日米和親条約が締結されたのは1854年年3月のことである。幕府は、日米和親条約の締結によって、ヨーロッパの強国が一斉に動き出すと予想していた。さっそく8月には、ロシアのプチャーチンが、幕府あての国書をもち4隻のロシア艦隊を率いて長崎に入港する。
勘定奉行の川路聖謨は幕府の命により長崎におもむきロシアとの交渉にあたることになった。クリミア戦争の勃発でロシア船が急遽帰港するなど交渉は中断する。本格的な交渉が下田で再開したのは1854年12月である。このときも、安政東海大地震が起こり津波によりプチャーチンの乗ってきたディアナ号は大破してしまい、修理もかなわず新船を建造することとなった。
日露和親条約の締結にいたったのは結局、1855年2月である。樺太の領有など厳しい局面もあったが、川路は強い決意で交渉にあたった。「ロシア側の国境画定要求について、たとえわが国の武力はとぼしくとも、いささかの譲歩もしてなならぬとかたく心にきめている」と。
交渉を重ねるなかで、川路はプチャーチンに「よほどの者」という印象をいだいた。屈することのない強靱な精神力をもつことに畏敬の念をいだき、真の豪傑だと。ロシア側も、川路から強い印象を受けたようである。使節に随行している秘書官の作家ゴンチャロフは、『日本渡航記』に「川路は非常に聡明であった。彼は私たち人を反駁する巧妙な弁論をもって知性を閃かせたものの、なおこの人を尊敬をしないわけにはいかなかった。彼の一言一句、一瞥、それに物腰までが、すべて良識と、機知を、炯眼と、練達を顕わしていた」と。
川路の外交努力にもかかわらず、井伊直弼は彼をいまわしい人物と考えていたようである。機に応じての的確な処理を、処世術によるものと思っていた。斉昭に接近していたことも感情をそこねたのだ。安政の大獄は峻烈なものとなり川路にはお役御免が申しつけられる。岩瀬忠震らも処罰された。
川路の日常生活は質実そのものであったようだ。夜明け前に起きて居合抜き、太刀の素ぶりをつづけた後、甲冑を身につけ太刀をさして走るようにはやさで歩くことを日課としていた。風呂から出たあとは、塩で睾丸をていねいに揉みあらいするという常に欠かさぬ習慣があった。精力の衰えをふせぐのに卓効があるときいていた。食事は一汁一菜。酒は一滴も口にしなかったという。
やがて明治維新へと歴史が動く。川路は大政奉還を時代の流れでやむを得ないと考えていた。しかし、慶喜の将軍職辞任は、責任を放棄した理解しがたいことであった。幕府の崩壊が眼前に迫っていると思った。その運命に殉じたのだろうか、割腹のうえピストルを自らに撃ち込み命を絶った。享年68。
◆『落日の宴 勘定奉行川路聖謨』 吉村昭、講談社、1996/4
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