■ 『かもめが翔んだ日』 プロフィットセンターがカギだ (2004.1.26)

あのリクルート事件が、平成15(2003)年に結審した。もう15年が過ぎたのだ。リクルートコスモスの非公開株を、トンネル会社を使って政治家らへ幅広くばらまいたのである。創業者の江副浩正には懲役3年、執行猶予5年の判決が下された。執行猶予の情状の一つに、「平成4年にリクルート株の大部分を譲渡して身を引いたこと」が挙げられている。

平成3年から4年にかけての、このリクルート株のダイエーへの譲渡の経緯が、本書の後半部分を占めている。当時、リクルートグループは、順調に業績を伸ばしており、グループ全体で1兆8千億円に達する借入金にも問題はなかった。しかし、不動産の急激な値下がりで、リクルートコスモスの業績が急落下。ノンバンクのファーストファイナンスの不良債権も拡大した。曲折の末、江副の口利きでダイエー中内功会長の支援を受け決着するのだが、最終的にこの不良債権は、リクルートの営業利益で償却していった。この10年間の不良債権の処理額は1兆1千億円と巨額であった。

本書は、創業者自身が語る、森ビルの屋上物置小屋からスタートした痛快なリクルートの成長神話である。しかし読後にいまひとつ爽快感がないのは、やはり、このダイエーへの株譲渡のくだりで、江副サイドからの自己弁明に大きくページが費やされているからでもあるだろう。

リクルートは、もっとも革新的なビジネス創業者を輩出する企業として名を馳せている。NTTドコモに転じたiモードの生みの親・松永真理が代表例だ。江副は、「リクルートは人が資産」と繰り返し、ドラッカーに啓発されたマネジメントシステム――プロフィットセンター (PC)制――がカギだと言う。

会社の中に小さな会社(PC)をいくつもつくり、そこに大幅な権限を委譲し成果を求める。PC長は他のPC長と協調的競争をしつつ独自の経営を行う。大きくするも廃業になるのも、PC長の力量にかかっている。高い業績を上げれば、事業部門の長にもなる。これがリクルートで経営者を育てる仕組みになったのだ。上からの命令がなくても社員一人ひとりが自発的に仕事をする風土が育った。江副の退任時、グループ会社も加えるとPCは600を超えていたという。


◆ 『かもめが翔んだ日』 江副浩正、朝日新聞社、2003/10


読書ノートIndex2 / カテゴリIndex / Home