■ 『錯覚の科学』 脳の活性化には有酸素運動を (2011.11.22)
われわれが日常的に経験する錯覚については、本書によれば、6つに分類できるという――@注意力、A記憶力、B自信、C知識、D原因、E可能性、にまつわるものである。
注意力の錯覚の例として、「ゴリラの実験」とも言うべき興味深い実験結果が報告されている。実験用のビデオはこんな様子だ。それぞれ白シャツと黒シャツを着たバスケット選手が試合をしている。実験の参加者にはこのビデオを見てもらい、白シャツの選手のパス回数を数えてもらう。黒シャツの選手のパスは無視する。ビデオが終わった直後に、参加者にパス回数を答えてもらうというもの。
実験では実はパス回数は問題ではなかった。パスを数えてもらったのは参加者の注意を選手の動きに集中させるためであった。ビデオの途中で、ゴリラのぬいぐるみを着た女子学生が登場し、選手のあいだに入りこみ、カメラのほうに向かって胸を叩きそのまま立ち去ったのだ。
参加者の半数はゴリラに気づかなかったそうだ。まわりの世界は鮮明に見えてはいても、現在集中していることから外れた部分は、まったく見えないのだ。予期しないものに気づきにくい。たとえ目立つ物体がすぐ目の前に現れたとしても。
(本書の原題は"The Invisible Gorilla")
視覚的に目立つものや異常なものがあれば、絶対的に自分の注意まるを引くはずだと思い込む、だが実際にはまったく気づかないことが多い――注意力の過信だ。人間の脳にとって、注意力はゼロサムゲームである。ある場所、目標物、あるいはできごとに注意を集中すれば、必然的にほかへの注意がおろそかになる。脳の構造も、つねにまわりの世界をすみずみまで知覚するようにはできていない。
いくら気をつけても、自分の注意を引くものへの、直感的かつ誤った思い込みは、簡単には防げそうにない。だが注意力の錯覚が起きることを自覚すれば、その予測のもとに行動を変え、錯覚に引きずられるのをやめることができる。
日常的錯覚をなくすには、認知能力を鍛えることが方策のひとつだろう。しかし、認知力トレーニングでは、日常的錯覚を追い払えるほどの力はつかない。脳トレーニング・ソフトでは、そのソフト特有の問題を解く能力は高まるが、新たに身につけた能力をほかの問題に応用できるわけではない。
著者が勧めるのは、脳を直接鍛える方法ではなく、体を鍛える方法――特に有酸素運動だ。肉体を使うエクササイズのほうが、心臓の健康状態の改善や脳の血流増加に効果がある。激しいものである必要はない。週に数回、適度な速さで30分以上歩くだけでいい。それで行動管理能力が向上し、健康な脳が維持される。
ほかに錯覚の例として挙げられているのは、次のようなものだ。
記憶の錯覚とは。記憶には、実際に起きたことと、それに対する自分の解釈とが混じりあうという。すでに自分が知っているものと記憶を関連づけるのだ。自分が正しく記憶したものと、関連づけでみずから作り上げたものとを、区別するのは難しい。
自信の錯覚。自分の能力を過大評価しがちな一般的傾向に起因するものだ。私たちは好成績を収めれば自分が優秀だからだと思い、失敗すれば「調子が悪かった」「ついていなかった」と考え、条件が悪すぎたと自分に言いきかせる。
大きなプロジェクトの失敗原因にあげられるのは、知識の錯覚である。建設計画が設計よりはるかに困難で経費がかさんだ例が世の中に多い。ニューヨークのブルックリン橋は当初予算の2倍の経費がかかったこととか。もっと簡単な計画でも、誰もがこのたぐいの知識の錯覚に影響される。計画にかかる時間や経費を少なく見積もってしまう。自分が深い理解をもっていると思い込むからだ。だが実際には、表面的な感覚にもとづく大雑把で楽観的な推測にすぎない。
原因の錯覚。脳がものごとをパターンで捉え、偶然のできごとに因果関係を読み取って原因と結果を見ようとするからだ。人類は原因の推理力を進化させてきたが、問題は自分に都合にいいように考えるのがうますぎることだ。(1)偶然のものにパターンを見いだし、それに従って将来を予測すること。(2)2つのものの相互関係を、因果関係と思い込むこと。(3)前後して起きたことに因果関係があると思い込むことと。
可能性の錯覚。ひところ世の注目をあびたモーツァルト効果――モーツァルトを聞いた学生のほうが成績が良かった、には科学的事実はないとのことだ。モーツァルトの音楽は、日常生活で体験するさまざまな脳への刺激と同じようなものだったが、沈黙とリラクゼーションのほうが、認知能力を低下させたというわけだ。
◆『錯覚の科学』クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ著、木村博江訳、文藝春秋、2011/2
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