■ 『あたりまえのこと』 倉橋由美子の小説読本 (2002.2.3)

倉橋由美子の小説は一つも読んだことがないのだが、何気ないタイトルに訴えかけるものがあったのだろうか。

本書は2部に分かれる。前半は「小説論ノート」、後半は「小説を楽しむための小説読本」とある。あとがきによれば、「小説論ノート」は小説に関連したさまざまな観念についての私流の定義集か自家用倫理規定のようなものです、とのこと。後半のほうは、楽しめない小説がなぜ多いかという憂鬱な事実について書いた、とある。本文はレトリックを駆使した文章群である。構造的にも複雑である。そしてその主張は厳しい。

冒頭の章は、もののあわれ。本居宣長は、小説の神髄は「もののあわれ」であることを謳ったという。大勢の人間に読まれる小説の本質は、「もののあわれ」である。そして「小説の本質は人を感動させることにある」。これは著者の主張かなと一瞬信じかけたのだが、そう単純ではないようである。何百万のベストセラーに対する批判とも読める。

「小説の基本ルール」を読んでみよう。素顔で自分のことを語っては小説にならないという。それは何になるよりも前に自慢話になってしまうからである。自己批判にしても自己嫌悪の表明にしても、また弁解にしても、自分のことを語ればそれは所詮自慢話でしかないのである。自分の母が実は娼婦だったいう類の打ち明け話も、その本質は自慢話であると。実に厳しいルールではないか。

後半の「小説を楽しむための小説読本」は「です」スタイルで書いてあり一見読みやすい。主張もストレートであるが内容は濃い。「思想より思考」では、大岡昇平の『野火』を引用している。『野火』は思想のある小説だと見られているが、この文章は、戦争という状況下では殺人は当たり前のこと、殺意もなしに人を殺すのは事故と同じ、という認識を正確に述べているだけのことだと言う。大事なのは、この文章には「○○主義」といった思想があるのではなく、十分な思考の跡があるということ。

ものを書くのに思考するのは当たり前、というのは誤解で、ほとんどの人のほとんどの文章は思考の労を省いて定型的な文章を並べたものだという。思考とは自分にとって「最適な文章」を考えること。素朴に、素直に、思うままを綴ったという文章は思考とは無縁であると。

最終章は、小説の読み方。文章を読んで時間が経つのを忘れるのと、音楽を聴いて時間の経つのを忘れるのとは、互いによく似たところがあるという。さらに、「音楽」が聞こえてくるような、上質の文章を見つけて読むことが楽しみになるという。それにしても本書には音楽とのアナロジーが随所に出てくる。それが皆ぴたりと決まっているのである。ランダムに拾い出してみよう。

・見たまま感じたままを素直に書いたと称する稚拙な文章は指一本でピアノを叩いて何かを表そうとしているようなもので、それは音楽をなすには遠く、精神の飛翔を描くには無力である。

・知らない演奏家のCDを試聴してみる時、楽器がよく鳴っているか、音色がいいか、切れがいいか、リズムが快調か、フレーズが面白いか、といったことはちょっと聴けばわかります。小説でもその他の本でも、あちこち拾い読みしてみれば文章の質がわかります。


◆『あたりまえのこと』 倉橋由美子著、朝日新聞社、2001/11

◆倉橋由美子 (くらはし・ゆみこ) 1935年、高知県生まれ。明治大学仏文科に在学中の1960年、明大新聞に発表した小説『パルタイ』が脚光を浴び、選者の平野謙に文芸時評で推奨され、同年の芥川賞最終候補になる。また同作品で61年の女流文学賞を受賞。小説に『聖少女』『スミヤキストQの冒険』など。



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