■ 『検証・伊達の黒船』 政宗の深謀遠慮 (2003.4.27)


伊達政宗
の命を承けて、支倉常長の遣欧使節船が出帆したのは、慶長18(1613)年。家康がまだ存命の時代であった。太平洋を越え第一の目的地メキシコへと向かった。この遣欧船(サン・ファン・バウティスタ号)は、いわゆる黒船であり、スペインの「ガレオン船」をモデルとして仙台藩が建造したものである。ガレオン船の特徴は、長期航海の安全性に重点が置かれていること。構造的には喫水が深く(4.5メートル)復元力が優れている。ヨーロッパ大航海時代に発達を遂げてきた。

サン・ファン・バウティスタ号を「誰が」「何処で」「どんな方法で」建造したのか未だ解明されてはいない。史家の間では出帆地とされる「石巻月浦」が建造地として優位とされてきたが。本書は、技術屋(土木工学)である著者が、技術的な工程・条件を丹念に検証・推定し、この謎に挑んだものである。

著者は、サン・ファン・バウティスタ号の建造地の、必要条件を挙げ一つひとつ検証している。従来説を技術的にあり得ないと、バッサバッサと切り捨てる様は、快感ですらある。そして、建造地を「大原川・雄勝湾」と結論づける。状況証拠――バラスト・口伝・痕跡が周辺に豊富に存在する――からいって、紛れもない事実であると。従来の「石巻月浦建造」説については、著名な歴史家が積極的に肯定することにより当然視され、技術的に在り得るはずがないことが、検証もされずに「定説」として語られたという。

さらに、この建造地の謎には、伊達政宗の遠謀がからむと推断する。造船に関連した記録は何故か存在しないのだが、人為的な意図が加えられた可能性が強い。後世の人々は、政宗の幕府に対する慎重な藩経営戦略としての「証拠隠滅」作戦にまんまと乗せられたと。

遣欧使節が日本に戻ったとき、出発時とは異なって海外渡航禁止・キリシタン禁令など幕府の厳しい「目」が注がれた。家康の計画を代行したこととはいえ、為政者の交代で権力闘争に巻き込まれて「改易」という最悪のシナリオをも想定した対応を、政宗は選ばなければならなかった。キリシタンの理解者でもあった政宗は、幕府の厳しい処置を目にして一転してキリシタンに対する過酷な処分を実施せざるを得ない状況にあった。このような状況下にあった政宗が、現地の物的証拠は消しておく手段を取ったというのだ。

サン・ファン・バウティスタ号の大きさは推定300トンはある。当時の日本では超大型船である。また船底が平底の和船とは異なり、喫水も深い。設計にしても建造にしても決して容易な事業ではなかったはずだ。このような船の建造は、船体の組み立て以上に安全な進水方法を探ることが生命線である。潮差を利用した「船渠」 (ドック方式) こそ最も古い造船工法なのである。サン・ファン・バウティスタ号を建造する場合、「ドック方式」の可能な場所が先ず決定されなければ造船に結びつかない。

当時の船梁(ドック)方式の適地条件を整理し8つの条件を挙げている。
・前面の海が深く、遠浅でないこと
・周囲が山で囲まれ風の影響を受けにくい
・船を押し出す流量・流速を確保できる河川が存在する
・木材が入手しやすい地理的条件を有している
・比重が重く、加工が可能な石材(バラスト)が付近で採取できる 等々
この条件を全て満足する場所が宮城県の海岸線では只一箇所「雄勝船戸神明地区」だったのだ。

◆ 『検証・伊達の黒船 ―技術屋が解く歴史の謎― 』 須藤光興、宝文社、平成14/6

◆ 須藤光興 (すどう・みつおき) 昭和16年生。日本大学理工学部卒。昭和40年 宮城県職員。水道課長、技術参与兼下水道課長。平成12年退職。技術士(水道部門)

◆本書はなかなか入手が難しいようです。私はこちらのオンライン書店 本のゴリラハウス のお世話になりました。

◆ 石巻市のサン・ファンパークにはサン・ファン・バウティスタ号の復元船が係留されている。
サン・ファンパークの ホームページは → こちら


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