■ 『「私」のいる文章』 森本哲郎著。表現する中身が大事 (2002.10.14)







著者は昭和51年、27年間の新聞記者生活に終止符を打って、一介のもの書きになった。辞職したわけは、ただひとつ、"「私」のいる文章"を書きたかったから。「私」のいる文章とは、「私は……と思う」という形の文章。「私」のいない文章とは、「それは……である」といった文章である。前者は主観的文章、後者は客観的文章か。ライヘンバッハ流に言えば「絵画的文章」と「科学的文章」とも。


新聞の記事は、あくまで客観的な報道文でなければならない。若き森本記者は、デスクにこう諭されるのである。「形容詞はいらない。かんじんなことが、はっきり書かれていればそれでいい。新聞記者にとって名文というのは、だれが読んでもわかる文章、簡潔にことのしだいを述べた文章のことだ」

新聞社をやめて、こんどは自由に「私」のいる文章を書きたいと思った。しかし、「私は……と思う」という「私」のいる文章を書くためには、なによりもまず、自分のなかに、書くべき何かを育てなければならない。これは、至難なことだという。

第一に、文章に表す中身、つまり、自分が何を、どう思っているのか、それをはっきりと自覚すること、これこそが文章作法の第一である。どのように書くか、などという表現の技術は二の次だと。


◆ 『「私」のいる文章』 森本哲郎著、新潮文庫、昭和63/12(1988) 単行本=昭和54/6ダイヤモンド社(1979)

◆森本哲郎 (もりもと・てつろう) 1925年東京都生れ。東京大学文学部卒。同大学院修士課程修了。東京新聞社会部記者、朝日新聞編集委員、東京女子大教授を経て、文明評論家。世界各国の遺跡などを歴訪、文明批評や旅行記などの著述を中心に活動。古代以降の文明や国家の盛衰を研究。


読書ノートIndex2 / カテゴリIndex / Home