■『大航海時代』 旅と発見の2世紀 (2014.7.30)



大航海時代という言葉にはロマンの響きを感じる。かねてから、この時代をを俯瞰してみたいと思っていたのだが。本書は、たまたま古本屋のワゴン・セールで目にして手に入れた。まとまった好著ではないか。原著は1952年ハーヴァード大学出版局から刊行された。
大航海時代の前夜から植民地の確立に至る200年――1420年から1620年の期間、すなわちエンリケ航海王からエリザベス女王時代の終焉まで――を通覧している。世界史上空前の航海・発見・征服の世紀を切り開いたのは、ポルトガルのエンリケ王子の洞察力と不退転の決意だったのだろう。陸続と、コロンブス、マジェランなど冒険心に溢れた英雄たちが輩出する。コルテスやピサロの果断な行動力と裏腹な悪逆ぶりはどうだろう。キャプテン・ドレークが英国の時代へと導く


1492年の春、コロンブスはイサベラ女王の後楯を得て冒険事業へと出航する。コロンブスは西インド諸島に到達したが、ポルトガルの権利主張を防ぐために、新発見の島々に対するスペインの主権の確認を求めて、ローマ法王に請願書を送る。これは後に、分界線を定めて、西側の探検をスペインに東側の発見はポルトガルの独占に委ねることを規定した、法王教書の発布を導くことになる。

征服者(コンキスタドーレス)の時代が始まる。中央アメリカの北部では、アステカ族が覇を唱え、巨大な軍事組織と政治力によって、メキシコ支配を伸長して行った。大胆不敵で冷徹果断なスペイン人、エルナンド・コルテスは、わずか400人のスペイン歩兵を率いて、アステカの防戦を圧倒し首都を陥落させる。コルテスの措置は苛烈を極め、アステカ王国と宗教のあらゆる残滓を一掃してしまった。

インカ帝国は14世紀から15世紀にかけて領土を拡大していった。土木工事・建築・織物、陶芸は高い発達を遂げ、軍用道路と宿駅の組織は帝国全土をカバーしていた。インカ人は、文字を持たなかったが、紐と結び目の組合せからなる《結節縄(キープ)》という道具を使い、事実を記録したりすることができた。

スペイン人のフランシスコ・ピサロは、勇気と決断力に恵まれた男であった。1532年の初秋には、62名の騎兵と106名の歩兵の先頭に立ち、危険に満ちたアンデス越えの進軍を開始する。大胆かつ周到な行動によってインカ皇帝の身柄を抑え、続く戦闘でインカ軍を大破する。

コルテス、ピサロの2人は共に強奪者であった。コルテスはメキシコに達するや否や、アステカ王室の財宝を一挙に押収する。ピサロは、インカ帝国の宝庫をすっからかんにしたのである。それ以来、ずっとルネッサンス期を通じ、毎年莫大な量の金や銀塊が大西洋を越え、金融市場にはスペインの富が氾濫した。その結果物価は高騰を続けた。スペインは甚大な影響を蒙り、情勢への対応能力を欠いたフェリーペ2世の政府は、新世界の無限の財宝という夢の実現を見たにもかかわらず、3度も債務の不履行に陥ったという。

マジェランは西航して大西洋を渡り東印度諸島に至るという壮大な計画を立てる。西回り航路をとって東洋に達することで、コロンブスのやり残した仕事を完遂するのが目的だったのだろう。マジェラン遠征隊は1519年9月にスペインを出航する。継ぎ接ぎだらけの老朽船5隻の編成であった。2カ月余の航走でブラジルの最東端に達する。パタゴニアに滞在中に船員の叛乱が勃発するが、マジェランは鉄の意志をもって反乱側を屈服させる。

マジェラン海峡を通過し、ついに全航海中で最も長距離にわたる太平洋横断へと進み、98日間の航海でようやくセブ島に到着する。マジェランは、土地の抗争に巻き込まれ、1521年4月の戦闘で命を落とす。マジェランの死を越えて航海は遂行された。世界周航は、最後に残った小さな帆船<ビクトリア>が果たすことになった。出発以来丸3年にあと12日足りない、1522年9月8日、壊血病と飢餓に苦しんだ乗組員は、セビーリャに帰着した。マジェランの航海は言語に絶する困難を克服した勝利として、ダ・ガマ、コロンブスを凌駕するものだ。

英国の爆発的な海外雄飛は、スペインというお手本に刺激されたものだ。ドレイクの世界周航は、英国人としては最初だが、スペインに続く2番目のものだ。ドレイクは補給船を含む計5隻でプリマスを抜錨し、大航海の途に上る。マジェラン海峡を一気に乗り切ったが、ホーン岬の緯度近辺まで吹き飛ばされてしまい、ドレイクの船は独りぼっちになってしまう。

ドレイクはスペイン商船の襲撃を重ね、略奪品をいっぱいに詰め込み、サンフランシスコ湾に入る。十分な休養と修理の後、太平洋横断に出発した。モルッカ諸島とジャワ島の間の航行では、ドレイクの操船術の冴えが発揮された。喜望峰を目指し印度洋を横断。艦隊出港以来2年と10カ月の1580年9月26日、プリマスに帰ってきた。マジェランと比較すると、共に5隻で出発し、それぞれ1隻だけがやり遂げた。所要日数はほとんど同じである。

航海術の発達とともに、地図製作の技術も著しく拡大した。ベルギー生まれのメルカトールは、地図投影法の歴史上で輝く人物である。1569年に自身の名で呼ばれる投影法を使った世界地図を出版した。この地図では、羅針方位は総て直線になる。したがってメルカトールの海図によれば、両地点間の距離が短い場合は、一定の羅針針路上における直線航行が実用できるのである。1599年以後に広く普及するものとなった。

船舶の形態にも技術革新が進んだ。三檣帆船(スリー・マスター)の出現は、これ無くして大発見は決してあり得なかった、と言えるものである。アラビア人はラティーン帆、つまり帆柱の前後にかけて1枚の三角帆を張ることを発達させた。その形状から大三角帆ともいわれた。大航海時代の大型帆船には最後尾のマストにラティーン帆を張り、舵の機能を果たすようになった。風をはらんで翼の形となった三角帆の向きを変えれば逆風でもジグザグ前進できたのだ。

1440年頃には船の形態革命が進み、カラヴェル船がエンリケ航海王麾下の船長達に使われた。カラヴェル船は三檣型で通常大三角帆を装着し、前部に主檣を、後部に2本の小さい帆柱を具えている。船体は細長かった。大体50トンから200トンの間である。当代随一の高性能帆船となった。風上へ回る性能では卓越していた。風にまともに逆らう以外はどこでも帆走できたし、後年の名高い快速大型帆船(クリッパー)の航走記録に負けないほどであった。コロンブスの第1次航海では、3隻中2隻までが、横帆式カラヴェル船であった。

大発見が及ぼした社会的影響は実感的なものとなった。アメリカやアジアからもたらされた商品雑貨の多くは直接ヨーロッパで日用に供せられ、宝石や装身具類には金銀がふんだんに使われるようになった。そして、特に新世界からの植物――馬鈴薯、ポテト、トマト赤茄子、玉葱、……そしてバナナ等―― は風土に馴染み帰化して、遂に日常必需の食物として然るべき座を占めるようになったのだ。タバコもその一つだ。

◆ 『大航海時代 ――旅と発見の2世紀』 ボイス・ペンローズ/荒尾克己訳、筑摩書房、1985/9

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