■ 『誤作動する脳』 幻視という現象は (2020.8.12)
著者はレビー小体型認知症の診断を50歳で受けている。そこに至るまでに、「うつ病」と誤診され6年間もの長い治療を続けた。レビー小体病とは脳の神経細胞内に、特別なタンパク質(これがレビー小体といわれるαシヌクレインなど)の塊が蓄積することによって発症する病気である。認知症症状のない患者もいる。
脳の機能障害は、外観からは判断できないので、多種多様な困りごとも周囲から気づかれにくく、理解もされにくいものである。著者は勇気をもって自らの病名と症状を公表し、レビー小体病への世間の理解を深めている。幻視・幻聴などの症状が、脳の機能障害によることを明らかにしている。決して精神病としてひとくくりにはできないものなのだ。
主治医が替わったことをきっかけにして、うつ病の泥沼から抜け出すことができた。しかし、うつ病が治ったと喜んだのもつかの間、翌年には幻視の症状が頻繁に出てきた。専門医を受診し、レビー小体型認知症と診断される。抗認知症薬による治療が始まると幻視など、さまざまな症状が改善された。嗅覚障害に気づいたのは、その翌年である。アルツハイマー病の初期に嗅覚が低下しやすいことは知っていた。嗅覚が低下し続いて記憶障害が始まる。聴覚の異常も四十代初めには感じていた。
いろいろな症状を発症するなかで、自分の症状は、認知症の本を読んでも理解できなかった。しかし高次脳機能障害や発達障害などの当事者が書いた本を読むと、共通点が次々と現れ腑に落ちたという。情報の選択に失敗する「注意障害」ではないかと気づいた ――当時は知らなかったが、たくさんの音の中から自分に必要なものだけを正しく拾うという作業に脳が失敗していたのだ。医学書には、レビー小体型認知症では記憶障害よりも注意障害が目立つとあった。
ある本(『わが家の母ビョーキです』)に、「統合失調症は脳の病気で、治療可能です」との言葉があった。幼少から見てきた母の病気が精神の病気ではなく、脳の病気と知った瞬間に長年の怖さが消え、その後「正しい知識が入ってくるようになった」と記しているのだ。正しい知識によって母親は回復し笑顔のある穏やかな暮らしと希望を取り戻したという。「脳の病気!」と驚いた。レビー小体病や症状だって、統合失調症と同じように、「脳の機能障害」と捉えればはなんの矛盾もなく理解することができる。精神の問題じゃなくて、脳の病気なのだ。
目でも耳でも鼻でもなく「脳」の誤作動だったのだ。病気でなくても、雪山での遭難や死別など、脳に強いストレスがかかったとき、幻覚(幻視や幻聴)が起こる仕組みを人は普通に持っている。完全に音を遮断した部屋に長時間閉じ込められれば、多くの人には幻聴が起こるだろう。千日回峰行という天台宗の苦行がある。比叡山山中を1日48キロ、千日間歩き続けていると天狗や狐が見えるようになるという。これらは、神秘体験として語られることが多い。脳は刺激を求めて自ら幻をつくり出すのだ。脳を蝕む最大の敵はストレスだと体験から思い知った。
専門医によって、抗認知症薬治療を受けるまえには、次から次へと現れるさまざまな幻覚に翻弄されおびえていた。クルマでスーパーの屋外駐車場をゆるゆる徐行していたとき、バックミラーに垂れ下がる大きなみかんほどのクモを突然見つけたことがある。私たちは自分が見ているものこそが、確かな現実だと受け止める。それが実在しないと考えることは、とても難しいことだ。
脳は働き者です。目の前のコップを持ち上げる、水たまりを飛び越す、紙くずをゴミ箱に投げ入れる……。そのとき脳は、目から取り込んだ画像から一瞬にして距離、高さなど、たくさんの位置情報を瞬時に測定し、正確な順番とタイミングと強度で筋肉を次々と動かしている。複雑で高度なことを無意識に瞬時に行っている。ちょっとした脳の混乱を感じるときもあるだろう。石そっくりの発泡スチロール製の置物を石だと信じて持ち上げたとき、あまりにも脳がびっくりしたこととか。脳は見るだけで重さまで測って手の筋肉を動かしているのだ
脳は世界をありのままには認識していない。「私たちは、目の前にある同じ世界を見ている」というのは錯覚。、世界は人の数だけ存在しているのである。その世界はその人の中でも大きく変化していきます。「目の前にある現実」と信じている世界も、目からの情報を脳がさまざまに選択したり補ったりして再構成した映像にすぎない。私の幻視も脳が創り出している「現実」なのだ。
◆『誤作動する脳』樋口直美、医学書院、2020/3
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