■ 『日本語が亡びるとき』 まずは日本近代文学を読むことから (2009.1.25)
日本人の西洋コンプレックス、なかんずく英語コンプレックスを、著者はえぐり出す。日本人は日本語を大切にしてこなかったという。そして、今のままではインターネットの奔流(英語)に日本語は飲み込まれてしまうだろうと。言葉だけではなく、文学さらには文化そのものを失ってしまうのではないかと警告する。
現今の国語教育に対する懸念が、本書のテーマのひとつであろう。著者は、日本近代文学(明治・大正・昭和初期に書かれたもの)を読み継がせるのに主眼を置くべきであるという。西洋の衝撃を受けとめて、新しい日本語を生み出そうと模索を重ねていた時代の作品。濃度の高い文章に触れることだ。『たけくらべ』を読むことから始めようと言っている。
著者は<普遍語>という概念をとり上げている。世界語のイメージか。<普遍語>は、<書き言葉>と<話し言葉>のちがいをもっとも本質的に表すものだ。<話し言葉>は発せられたとたんに、その場であとかたなく消えてしまう。それに対して、<書き言葉>は残る。紙などに写すこともできる。何度もくり返して写すことができるから、どこまでも広まり、さまざまな言葉を話す人がそれを読むことができる。
<書き言葉>によって、人類の叡智が蓄積される――人々が自由に出入りできる図書館が建設される、といっていいだろう。<書き言葉>の本質は、読むという行為にある。学問とは<読まれるべき言葉>の連鎖にほかならない。だから本質として<普遍語>でなされる必然がある。
いま、インターネットの登場によって、英語は<普遍語>としての地位を、不動のものにしている。<学問の言葉>が英語という<普遍語>に一極化されつつある。近い将来には、世界中の大学が英語という<普遍語>を通じて学問の拠点となるであろう。日本の学者たちは外に向かっての論文は、既に英語でそのまま書くようになりつつある。
「日本語が亡びる」なんて不安を覚える日本人はほとんどいないだろう。しかし、日本の都市の風景はどうなっていったか。古い建物はことごとく壊され、その代わりに、てんでばらばらな高さと色と形をしたビルディングの醜い空間になってしまった。古い都市の風景――文化と言ってもいい――が日本人の生活空間のなかでは、たちまち崩壊してしまうのである。
日本語もこのままだと消え去ってしまうだろう。おまけに、インターネットでは、今まで日本語を守ってきた地理的条件(海洋に囲まれて孤立していた)は、まったく意味をなさない。
まず、中途半端な平等主義――多くの人が英語をできるようになればいい――を否定しなければいけない。日本人は何よりも日本語ができるようになるべきだ。学校教育で日本語に割く時間を増やすこと。本気になって「日本語を大切にしよう」と思うこと。<国語>など自然に学べるものだという思いを捨てることだ。
著者は、学校教育では、まずは日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべしと主張する。夏目漱石は、この近代文学を、曲折から生まれたと言った。西洋語の翻訳から、新しい日本語の「出版語」(規範性をもった書き言葉)を生むために、そして、その言葉で「西洋の衝撃」を受けた日本の現実について語るために、日本語の古層を掘り返し、日本語がもつあらゆる可能性をさぐるという気概をもって誕生したのものなのだから。
◆ 『日本語が亡びるとき――英語の世紀の中で』 水村美苗、筑摩書房、2008/10
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