■ 『おどろきの中国』 そもそも「国家」なのか (2015.9.20)
いまこそ、中国を知りたいと思う。本書は4部構成なのだが、最終部の「中国のいま・日本のこれから」を読み進んだ。
日本はいま中国なしにはやっていけない状況だという。経済的にみても日本の生存可能性自体が中国に握られている。中国人との交流も一般的になり、これほど中国が身近になっているのに、中国に対してはネガティブな感情の方が前面に出ている。
現在の中国はほとんど資本主義では。社会主義=計画経済という「鳥かご」の中で、ほんの少しだけ資本主義に近い商品経済が許されているのだが。この「社会主義市場経済」はケ小平の発明だ。1992年の南巡講話で、この「絶対矛盾の自己同一」みたいなことを発明して宣言したからだ。
このまま経済の発展を続け、中国は21世紀の覇権国になるのだろうか。GDPだけみれば、中国がアメリカを超えることは間違いない。実質GDPはもう追い抜いているようだ。しかし国際社会の力学からみれば、「全キリスト教文明圏」対「中国」で比べるほうがをストレートだろう。中国の人口は13億人、全キリスト教文明圏はそれより多い。
いま世界は、なんだかんだ文句を言いながらも、アメリカの覇権を認めている。アメリカの行動は予測可能であり、説明責任も果たしているからだ。一方、中国の行動は予測が難しい。中国の思考と行動を支配しているソフトウエアの解析が必要だが、データや経験の蓄積がキリスト教文明圏にはないからだ。中国政府には人民に説明する習慣がないし、ある日突然なにか方向が変わっている、というリスクがある。
アメリカ一国の実力は低下するけれども、アメリカを中心とする集団覇権体制みたいなものは、将来も続くだろう。世界は今後、キリスト教文明圏対中国という構図になる。このなかで、日本の選択いかんで日米関係や日中関係が変転することはない。中国は、日本よりアメリカを重視しているし、アメリカも日本より、中国を重視しているからだ。日本は付属物だ。
ほんとうに日本にとって恐ろしいのは、アメリカからある日、日本のことはどっちでもいいよ、という扱いを受けること。さらに中国からも、日本はわれわれにとってどちらでもよい、という扱いを受けたときに、日本の屈辱感はさらに深刻になるだろう。
中国人と日本人を、個々人としての比べてみると、一対一だったら力負けするだろう。中国のリーダーはひとりの人間として自分の拠って立つ価値基盤とか人生の目標とか仕事上の責任とか世界観とかを、自覚的・意識的に構成している。他者に対して自分の行動をどう説明するかも、いつも意識している。中国人のよって立つ儒教は個人プレーの集まりだ。日本人は、大事なことは集団で決め、組織として行動するから、自分の考えや行動を相手に説明もできないし自分でも納得できない。もっと中国という文明の伝統を日本人はよく知ってリスペクトすることだ。日本はこの百年ぐらい中国に対してほんとうの意味でのリスペクトをもっていない。それは日本側の偏見によるのだ。
日本は中国とのインターフェイスになれるだろう。中国が困っていることを日本がよく分析し理解して中国に代わって世界に向けてアピールすることとか。よりよい信頼関係をつくること。たとえば中国研究所をつくれば、日本からの良いサインになるだろう。
◆『おどろきの中国』 橋爪大三郎・大澤真幸・宮台真司、講談社現代新書、2013/2
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